2008年7月
イザヤ書40:28〜31 テサロニケの信徒への手紙一4:13〜18
日本ではかつて人生を考え抜いた人々が、会者定離、諸行無常、色即是空などと結論した。すなわち人生ははかないものなので、最初から何の希望も持たない。故に失望もないと考える。しかし旧約の民はそうではなかった。人生に希望を持っていたが故に失望した。神に期待して生きて来たのに、「神に忘れられた」と神を疑い、自らの人生をはかなんでいる。預言者イザヤはそのような人々に尚、希望を告げる。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」。事実、主なる神は、御子イエス・キリストによって、ご自身の愛の中へと私たちを招いておられる。キリストに望みをおいて生きる人は、神の新たな力を得、聖霊に翼を張って志高く上り、神の国の到来に視野を向けて生きる者とされる。やがて地上での歩みを終える時には、主への御許へと「翼を張りて上る」。神は「イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。
2008年6月
申命記8:3 テサロニケの信徒への手紙一2:13〜20
神の言は前進する。神の言はさえぎる者の中を前進してゆきますそれ以外の仕方では、なかなか前進してゆかない。テサロニケ教会でも、神の言を拒む人々がいた。神の言が語られるところではいつでも、どこでも起こることです。神の言がみんなの人に歓迎され、喜んで迎えられるなんてことはありません。反対の中を貫いてこそ、信じる者たちも生み出されてゆく。教会は常に信仰による戦いがあります。主の十字架の力により頼まなければ、決して乗り越えることのできない戦いです。神の言を拒む力、この世の力は、あらゆる手段で、私たちに襲ってくる。それは何も、外からの迫害として襲ってくるだけでなく、むしろ私たちの内面から、信仰を崩そうとするかたちにおいて襲ってくる。神の言を疑い、拒む力が、一人ひとりの内に迫ってくる。しかし私たちがその弱さの中でキリストの十字架の力により頼んで生きてゆく時、神の言が、キリストご自身として出会う経験をします。
2008.6.8 松本のぞみ牧師 「派遣」
ヨシュア記1:1〜9 テサロニケの信徒への手紙一3:1〜13
キリストの祈りが十字架のアクションであったように、パウロたち、使徒たちの祈りも、聖霊の導きにより、キリストのアクションを起こしてゆきました。「派遣」、これはキリストの祈りが教会の兄姉を通して起こされるアクションであり、奉仕と献身を意味します。主イエス・キリストの名のもとに集められた教会の一人ひとりは、救いの真理を携えて、普遍的、世界的な広がりへと派遣されてゆく。教会の派遣によって福音伝道は前進し、キリストのアクションが起こされていきます。そのすべてはキリストの十字架の執り成しにつらなる教会の祈りによって起こされる。派遣された伝道者テモテを通して、テサロニケ教会に新たに主の御言が語られた。御言を受け入れた兄姉の主の十字架による新たな力が与えられ、大きな喜びがもたらされた。このように私たちもまた、主にあって祈り祈られる教会の群れから、主の証人として、世に広く派遣される一人ひとりでありたいと願います。
2008.6.15 小倉義明牧師 「出て行く」
ヘブライ人への手紙11:7〜16 マタイによる福音書11:28〜30
ヘブル11章は、比類なく美しい叙述だ。創世記12章のアブラムの出立を想い出している。現代人も<出立>してしまった。個人化、契約化、都市化、情報化、世界化へと、不可逆的に出立している。それなのに、人は変われない、変わりたくない、留まっていたい、後戻りしたい、と願っている。現代人のジレンマの秘密である。
<出立>しなければならない。出立の用件の第1は旅装をととのえること。旅人は身軽な方が良い。「なくてはならぬものは多くはない」と主は言われた。
<出立>の用件の第2は、声に気づくこと。聞こえてくる声を聞きとることだ。「よい耳を持たなければ」(讃U−83)。アブラムはその声を聞きとった。そして「主が言われたように出で立った」。召命に対する<応答>である。それは、デシジョン(決心)とアクション(行動)である。
主イエスの声が聞こえてくる。「われに来よ」と。「主よ、われは今ぞ行く」と応答したい。
2008.6.22 松本のぞみ牧師 「キリストの中に生きる」
申命記6:4〜5 テサロニケの信徒の手紙一4:1〜12
イエスさまは、聖霊によって、今も私たちと共におられます。聖霊によって、教会の群れは、イエスは主であると告白します。誰も聖霊によらなければ、イエスは主であると告白できません。神からいただいた私たちの体は、聖霊が宿って下さる神殿であり、聖霊によって、キリストが私たちのうちに主として宿って下さるので、私のからだはもはや主のもの、神さまのものとして聖なる者とされている、ということが起こってくる。
今から2千年ほど前、最初に聖霊が使徒たちに降ってから、教会は洗礼によって世界中に、新しい神の民を増し加えられて来ました。その枝である上尾使徒教会も代々の教会と共に、聖霊を受けて新しい神の民が増し加えられ、今年、創立38周年を迎えました。したがって今日のテーマである、「キリストの中に生きる」とは、洗礼により、聖霊を受けて、キリストの新しい命の中に生かされる、という事ができます。
2008.6.29 阿部洋治牧師 「不信仰にひそむ誘惑」
創世記16:1〜6 マタイによる福音書24:45〜51
「主はわたしに子供を授けてくださいません」(2節)。自分の現実認識からくるアブラハムの妻サライの判断である。これは18章12節の「サラはひそかに笑った」という言葉と通じる意味内容を含んでいる。もはや子供を産めない体になっている現実の中で、彼女はやむなくこのような断定を下さなければならなかった。彼女は、神がアブラハムに対してなさった約束(15・4)を知らなかったわけではない。しかし、サライは、自分の体の現実を見つめる時、もはや神によってさえも約束の成就は望めないと確信したのである。そこから彼女は現実対応の選択をすることになるのである。
信仰者の希望は今生きている歴史の現実にあるのではない。それは歴史の深いところにある。それは現実を無視するのではないが、神ご自身の約束に目を注がなければならない。そのために私たちは、現実に逆らって希望を持つのである。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのである」(ヘブル10・36)とあるとおりである。
2008年5月
2008.5.4 松本のぞみ牧師 「祈りによる形成」
詩篇118:19〜29 テサロニケの信徒への手紙一1:1〜10
テサロニケの信徒への手紙は一、二とどちらも祈りから始められます。祈りは、御子キリストの十字架の贖いによって私たちに与えられた神の賜物です。祈りによって、私たちは「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」の家族である絆を確かなものとされる。祈りによってぶどうの幹なる神から、キリストの血がその枝である私たちに流され、キリストの命が注がれる時、私たちは主の御心を知り、キリストの体へと形成されてゆく。礼拝の御言が、私たちの肉となり、血となってゆくのは、祈りによるからです。御言が私たちの糧であるなら、祈りは息をすることと言える。息をするとは、生きている、目覚めているということ。祈りによって、目覚めている人は、御言を味わい知り、その栄養を十分に頂くでしょう。そして日毎にキリストに結ばれている命の喜びを覚え、主への感謝が起こされる。祈りは、私たちをキリストの体なる教会へと形成する神の力です。
2008.5.11 松本のぞみ牧師 「喜びの教会」
詩篇51:3〜21 テサロニケの信徒への手紙一5:16〜18
教会はキリストの体です。キリストを信じることは、キリストの体なる教会を受け入れ、洗礼によって、神と共に生きる新しい命の始まり。イエス・キリストによって、神が私たちに望んでおられる命の始まりです。教会は神の国につながる場所として、キリストが十字架の贖いによって既に用意して下さった喜びの場所。私たちはここで、神に立ち返り、キリストの体の肢とされる、神と共にある命の喜びを回復させられる。だからこそ、礼拝の中で、私たちは神を喜ぶ讃美へと招かれ、神を仰ぐ祈りへと導かれ、神への感謝のしるしを献げる志が与えられる。そしてこのことは私たち自身の内からは決して起こり得ない出来事。まさに神はこの驚くべき出来事が起こされる場所、喜びの教会へと私たちを迎えるために、聖霊を降して下さった。それがペンテコステの出来事。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」。教会は聖霊によって神の国の喜びを与えられるのです。
2008.5.18 小倉義明牧師 「喜ぶ者と共に喜び 泣く者と共に泣く」
ローマの信徒への手紙12:9〜15
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」と、聖書は教える。だが、むつかしいことではないだろうか。そのむつかしさは二重の意味で ―― @私たち人間は本質的に自己中心であるから。他者の運命に嫉妬したり、不関心であったりする。また、他人の運命に深く共感していたら、こちらの身が持たない。A人生には、喜んでいる人と悲しんでいる人が相次いで、私たちの前に現れる。このギャップに、私たちは当惑する。
使徒パウロの場合 ――「ユダヤ人に対してはユダヤ人のように、異邦人に対しては異邦人のようになった」(Tコリント9:19〜21)。「わたしは貧に処する道も知っており、富におる道も知っている。いついかなる場合にも対処する秘訣を心得ている」(ピリピ4:11〜13)。この自由・柔軟さは、どこからくるのか。自己中心から神中心へと転換するところから。「主は与え、主は取り給う。主の御名は頌むべきかな」(ヨブ1章)
2008.5.25 松本のぞみ牧師 「育ち合う教会」
申命記32:11〜12 テサロニケへの信徒への手紙一2:1〜12
教会生活は、天の都を目指して歩む旅であります。しかし私たちは孤独に旅をするのではありません。主なるキリストに結ばれた兄弟姉妹、神の家族として互いに導き合い、支え合いながら、天の都を目指して旅する。ある人は天の都を目指すよう私をキリストの洗礼へと導き、ある人は、道をはずした私のために祈り、助けてくれました。使徒パウロもかつては、主を迫害する者でしたが、主に結ばれた兄弟アナニアの祈りによって洗礼を受け、主に結ばれた兄弟バルナバに導かれて神の家族、教会の交わりへと迎えられた。今度はパウロが主に結ばれた兄弟、伝道者とされて、テサロニケの人々に力強くキリストを証しし、天の都を目指すよう洗礼へと導きました。このように教会に迎えられた者は、これから迎えられる者を「母親や父親のように」導きます。しかし教会を成長させて下さるのは神であり、キリストに結ばれた私たちは共に、神の家族として育ち合うのです。
