イザヤ書40:28〜31 テサロニケの信徒への手紙一4:13〜18
日本ではかつて人生を考え抜いた人々が、会者定離、諸行無常、色即是空などと結論した。すなわち人生ははかないものなので、最初から何の希望も持たない。故に失望もないと考える。しかし旧約の民はそうではなかった。人生に希望を持っていたが故に失望した。神に期待して生きて来たのに、「神に忘れられた」と神を疑い、自らの人生をはかなんでいる。預言者イザヤはそのような人々に尚、希望を告げる。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」。事実、主なる神は、御子イエス・キリストによって、ご自身の愛の中へと私たちを招いておられる。キリストに望みをおいて生きる人は、神の新たな力を得、聖霊に翼を張って志高く上り、神の国の到来に視野を向けて生きる者とされる。やがて地上での歩みを終える時には、主への御許へと「翼を張りて上る」。神は「イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。
2008.7.13 松本のぞみ牧師 「夜も昼のように輝く」
詩編139:11〜12 テサロニケの信徒への手紙一5:1〜5
私たちの人生の最も孤独な時、今際の時に、主が共におられることは、なんと幸いなことでしょう。死には苦しみが伴います。肉体の痛み、愛する者とのこの世の別れは辛く悲しいものです。しかし私たちの人生の最も苦しい時にこそ、主が最も深く伴ってくださる。主イエス・キリストが十字架上で私たちの死の苦しみを共に負ってくださっているので、私たちの荷は既に軽くされている。だから主は、「誰でも疲れし者、重荷を負うている者は、われに来よ」と呼んでくださる。今や死は、決して暗い闇に葬られることではない。主イエス・キリストが、私たちの死の暗闇に、命の光をもたらしてくださった。主の命に結ばれて生かされるとき、私たちは生きるにしても、死ぬるにしても主のものとされている。主の光に包まれて、主のもの、光の子とされて生きる者は、「夜も昼のように輝く」。人生の暗い夜も、明るい昼も、どんなときも、主が光となって導いてくださるからです。
2008.7.20 小倉義明牧師 「帰れと神は呼び給う」
ルカによる福音書15:11〜32 ヨハネの黙示録2:3〜7
ルカ福音書15章。3つのたとえは、居るべき所からさまよい出た存在を示している。世相を見抜いておられた主イエスの眼指の鋭さに驚嘆する。さ迷う人間はあの時代の人々ばかりでなく現代人もそうではないだろうか。しかも個人ばかりでなく、現代日本全体があらぬ方向へさ迷い出ているのではないか。
迷い出ているのを知るのは、まず感覚によってである。住所不定の存在的問題は不安として立ち現れる。現代人が抱える不安は、社会全体が浮游してしまっていることを示唆しているであろう。そのこと自体、神からの「われに帰れ」という呼び声ではないか。
黙示録2章。「初めの愛に立ち帰れ」と言う。神は「わたしはあなたの若い時の純情、花嫁の時の愛を覚えている」と言われる。(エレミヤ2:2)。だが、その「愛が冷える」(マタイ24:12)。時代全体が冷えこんでいる。せめて私たち信仰者は燃えねばならない。あの〈初めの愛〉を神に捧げよう。
2008.7.27 松本のぞみ牧師 「光の武具を身に着け」
詩編121:1〜8 テサロニケの信徒への手紙一5:4〜11
私たちはまことの神を主体とする生き方にこの身を置く時、はじめてこの私を生かして下さる神を知らされます。そのように私たちを立ち返らせる場所が教会です。ここで私たちは既にこの世の闇に勝利された神の御子キリストの光の武具を身に着けさせて頂く。キリストの命の光を受ける洗礼によって、光の子として歩むよう導かれます。神の家族、光の子として歩き出すことは、最初に洗礼を受けるということが具体的に置かれている。ある神学者は「知らんがために信ずる」と告白しました。私たちもキリストについて知ろうとするゆえに、信じて洗礼を受けるのです。なぜなら洗礼によってはじめて、私たちはキリストの光に照らされ、キリストを知る光の子として歩み始めるからです。キリストを人間の知識で極め尽くすことは不可能なことですが、私たちがそれぞれにキリストの光を受けてあゆみ出す時、キリストのうちに隠された真理を少しずつ知らされてゆきます。
