申命記8:3 テサロニケの信徒への手紙一2:13〜20
神の言は前進する。神の言はさえぎる者の中を前進してゆきますそれ以外の仕方では、なかなか前進してゆかない。テサロニケ教会でも、神の言を拒む人々がいた。神の言が語られるところではいつでも、どこでも起こることです。神の言がみんなの人に歓迎され、喜んで迎えられるなんてことはありません。反対の中を貫いてこそ、信じる者たちも生み出されてゆく。教会は常に信仰による戦いがあります。主の十字架の力により頼まなければ、決して乗り越えることのできない戦いです。神の言を拒む力、この世の力は、あらゆる手段で、私たちに襲ってくる。それは何も、外からの迫害として襲ってくるだけでなく、むしろ私たちの内面から、信仰を崩そうとするかたちにおいて襲ってくる。神の言を疑い、拒む力が、一人ひとりの内に迫ってくる。しかし私たちがその弱さの中でキリストの十字架の力により頼んで生きてゆく時、神の言が、キリストご自身として出会う経験をします。
2008.6.8 松本のぞみ牧師 「派遣」
ヨシュア記1:1〜9 テサロニケの信徒への手紙一3:1〜13
キリストの祈りが十字架のアクションであったように、パウロたち、使徒たちの祈りも、聖霊の導きにより、キリストのアクションを起こしてゆきました。「派遣」、これはキリストの祈りが教会の兄姉を通して起こされるアクションであり、奉仕と献身を意味します。主イエス・キリストの名のもとに集められた教会の一人ひとりは、救いの真理を携えて、普遍的、世界的な広がりへと派遣されてゆく。教会の派遣によって福音伝道は前進し、キリストのアクションが起こされていきます。そのすべてはキリストの十字架の執り成しにつらなる教会の祈りによって起こされる。派遣された伝道者テモテを通して、テサロニケ教会に新たに主の御言が語られた。御言を受け入れた兄姉の主の十字架による新たな力が与えられ、大きな喜びがもたらされた。このように私たちもまた、主にあって祈り祈られる教会の群れから、主の証人として、世に広く派遣される一人ひとりでありたいと願います。
2008.6.15 小倉義明牧師 「出て行く」
ヘブライ人への手紙11:7〜16 マタイによる福音書11:28〜30
ヘブル11章は、比類なく美しい叙述だ。創世記12章のアブラムの出立を想い出している。現代人も<出立>してしまった。個人化、契約化、都市化、情報化、世界化へと、不可逆的に出立している。それなのに、人は変われない、変わりたくない、留まっていたい、後戻りしたい、と願っている。現代人のジレンマの秘密である。
<出立>しなければならない。出立の用件の第1は旅装をととのえること。旅人は身軽な方が良い。「なくてはならぬものは多くはない」と主は言われた。
<出立>の用件の第2は、声に気づくこと。聞こえてくる声を聞きとることだ。「よい耳を持たなければ」(讃U−83)。アブラムはその声を聞きとった。そして「主が言われたように出で立った」。召命に対する<応答>である。それは、デシジョン(決心)とアクション(行動)である。
主イエスの声が聞こえてくる。「われに来よ」と。「主よ、われは今ぞ行く」と応答したい。
2008.6.22 松本のぞみ牧師 「キリストの中に生きる」
申命記6:4〜5 テサロニケの信徒の手紙一4:1〜12
イエスさまは、聖霊によって、今も私たちと共におられます。聖霊によって、教会の群れは、イエスは主であると告白します。誰も聖霊によらなければ、イエスは主であると告白できません。神からいただいた私たちの体は、聖霊が宿って下さる神殿であり、聖霊によって、キリストが私たちのうちに主として宿って下さるので、私のからだはもはや主のもの、神さまのものとして聖なる者とされている、ということが起こってくる。
今から2千年ほど前、最初に聖霊が使徒たちに降ってから、教会は洗礼によって世界中に、新しい神の民を増し加えられて来ました。その枝である上尾使徒教会も代々の教会と共に、聖霊を受けて新しい神の民が増し加えられ、今年、創立38周年を迎えました。したがって今日のテーマである、「キリストの中に生きる」とは、洗礼により、聖霊を受けて、キリストの新しい命の中に生かされる、という事ができます。
2008.6.29 阿部洋治牧師 「不信仰にひそむ誘惑」
創世記16:1〜6 マタイによる福音書24:45〜51
「主はわたしに子供を授けてくださいません」(2節)。自分の現実認識からくるアブラハムの妻サライの判断である。これは18章12節の「サラはひそかに笑った」という言葉と通じる意味内容を含んでいる。もはや子供を産めない体になっている現実の中で、彼女はやむなくこのような断定を下さなければならなかった。彼女は、神がアブラハムに対してなさった約束(15・4)を知らなかったわけではない。しかし、サライは、自分の体の現実を見つめる時、もはや神によってさえも約束の成就は望めないと確信したのである。そこから彼女は現実対応の選択をすることになるのである。
信仰者の希望は今生きている歴史の現実にあるのではない。それは歴史の深いところにある。それは現実を無視するのではないが、神ご自身の約束に目を注がなければならない。そのために私たちは、現実に逆らって希望を持つのである。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのである」(ヘブル10・36)とあるとおりである。
