2008.5.4 松本のぞみ牧師 「祈りによる形成」
詩篇118:19〜29 テサロニケの信徒への手紙一1:1〜10
テサロニケの信徒への手紙は一、二とどちらも祈りから始められます。祈りは、御子キリストの十字架の贖いによって私たちに与えられた神の賜物です。祈りによって、私たちは「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」の家族である絆を確かなものとされる。祈りによってぶどうの幹なる神から、キリストの血がその枝である私たちに流され、キリストの命が注がれる時、私たちは主の御心を知り、キリストの体へと形成されてゆく。礼拝の御言が、私たちの肉となり、血となってゆくのは、祈りによるからです。御言が私たちの糧であるなら、祈りは息をすることと言える。息をするとは、生きている、目覚めているということ。祈りによって、目覚めている人は、御言を味わい知り、その栄養を十分に頂くでしょう。そして日毎にキリストに結ばれている命の喜びを覚え、主への感謝が起こされる。祈りは、私たちをキリストの体なる教会へと形成する神の力です。
2008.5.11 松本のぞみ牧師 「喜びの教会」
詩篇51:3〜21 テサロニケの信徒への手紙一5:16〜18
教会はキリストの体です。キリストを信じることは、キリストの体なる教会を受け入れ、洗礼によって、神と共に生きる新しい命の始まり。イエス・キリストによって、神が私たちに望んでおられる命の始まりです。教会は神の国につながる場所として、キリストが十字架の贖いによって既に用意して下さった喜びの場所。私たちはここで、神に立ち返り、キリストの体の肢とされる、神と共にある命の喜びを回復させられる。だからこそ、礼拝の中で、私たちは神を喜ぶ讃美へと招かれ、神を仰ぐ祈りへと導かれ、神への感謝のしるしを献げる志が与えられる。そしてこのことは私たち自身の内からは決して起こり得ない出来事。まさに神はこの驚くべき出来事が起こされる場所、喜びの教会へと私たちを迎えるために、聖霊を降して下さった。それがペンテコステの出来事。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」。教会は聖霊によって神の国の喜びを与えられるのです。
2008.5.18 小倉義明牧師 「喜ぶ者と共に喜び 泣く者と共に泣く」
ローマの信徒への手紙12:9〜15
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」と、聖書は教える。だが、むつかしいことではないだろうか。そのむつかしさは二重の意味で ―― @私たち人間は本質的に自己中心であるから。他者の運命に嫉妬したり、不関心であったりする。また、他人の運命に深く共感していたら、こちらの身が持たない。A人生には、喜んでいる人と悲しんでいる人が相次いで、私たちの前に現れる。このギャップに、私たちは当惑する。
使徒パウロの場合 ――「ユダヤ人に対してはユダヤ人のように、異邦人に対しては異邦人のようになった」(Tコリント9:19〜21)。「わたしは貧に処する道も知っており、富におる道も知っている。いついかなる場合にも対処する秘訣を心得ている」(ピリピ4:11〜13)。この自由・柔軟さは、どこからくるのか。自己中心から神中心へと転換するところから。「主は与え、主は取り給う。主の御名は頌むべきかな」(ヨブ1章)
2008.5.25 松本のぞみ牧師 「育ち合う教会」
申命記32:11〜12 テサロニケへの信徒への手紙一2:1〜12
教会生活は、天の都を目指して歩む旅であります。しかし私たちは孤独に旅をするのではありません。主なるキリストに結ばれた兄弟姉妹、神の家族として互いに導き合い、支え合いながら、天の都を目指して旅する。ある人は天の都を目指すよう私をキリストの洗礼へと導き、ある人は、道をはずした私のために祈り、助けてくれました。使徒パウロもかつては、主を迫害する者でしたが、主に結ばれた兄弟アナニアの祈りによって洗礼を受け、主に結ばれた兄弟バルナバに導かれて神の家族、教会の交わりへと迎えられた。今度はパウロが主に結ばれた兄弟、伝道者とされて、テサロニケの人々に力強くキリストを証しし、天の都を目指すよう洗礼へと導きました。このように教会に迎えられた者は、これから迎えられる者を「母親や父親のように」導きます。しかし教会を成長させて下さるのは神であり、キリストに結ばれた私たちは共に、神の家族として育ち合うのです。
